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私の趣味




第一部 わたしの場合・・・

家族で野球見物
すもうの観戦
ひまつぶしのへぼ将棋
ときどきの囲碁
家族でサッカー見物
年に何回かのゴルフ
月に一二回の麻雀
ときにはチラシに釣られてパチンコ
ごくたまに釣り
ときたま競馬場へ
まれに競輪・競艇
カラオケにもいく
少し恥ずかしいのがアダルトビデオ
観劇にも
ついでにコンサート
家族で旅行
週末のドライブ
内緒だが、大人のおもちゃ屋さんへ
いかがわしいお店へときどき
テレクラ
狩猟、猟銃をぶっぱなす快感
絶対秘密の買春
極極秘密のヘロイン・コカイン

 こんなものを、われわれぐらいの年のもの(十分過ぎるぐらいに、いい年です)は、公然の、または、ごく秘密裏の趣味としているのではないかと思うが、小生は、以上の一切について、趣味がないので、こまってしまいます。
 売春や麻薬には、そりゃあ無縁かもしれないが、ゴルフをしないのか、パチンコをしないのか、将棋もか、といわれるでしようか。でも、そうなのです。
 麻雀のやりかたも、囲碁のやりかたも、ドライブの仕方も鉄砲の撃ち方も(後二者なんか警察から禁止されていますし)、知らないのです。
 競馬や競輪もだと。そうです。ただ、競輪は一度だけ、学生のころ、5年以上のむかしのことですが、アルバイトで和歌山のガスタンクの補修にいったとき、泊り込みだったこともあり雨上がりの日曜でした、雇い主のひとにつれていってもらったことがあります。少し勝ったのではなかったかと思います。
 野球をみないのか、サッカーもか、・・そうなのです。
  なにを楽しみに生きているのかといわれますか。・・・
 小生、ほんとに、おもしろくもなんともない男のようです。むかし、映画に『男はつらいよ』というシリーズがありましたが、あのなかにでてきていた、さくらさんの夫、ひろしさん、あのおもしろくもなんともない、くそまじめな男、あれに輪をかけて面白くなくしたのが自分かなと思うことがあります。
 でも、趣味をあげないと、変わり者に見られてはと思うときには、音楽鑑賞とか読書をあげます。しかし、後者は、本業のうちのことであって、趣味ではないし、音楽も、バックミュージックにしているぐらいで、演奏会に出かけるようなことはありませんから、趣味というべきではないと思います。
 変わったこととしては、ウォーキングがありますが、これは、本気ですし、体にプラスでないのなら、即日やめるつもりですから、趣味とは言いにくいでしよう。
 なにか特色あるものをあげなくてはと、あせるときには、水墨画をあげることもあります。しかし、誰かにせかされて「しかじかの言葉で、絵は何でもいいから・・・」等と言われて、やっと腰を上げ、二三ヶ月かけて、ああでもないこうでもないと書き散らして、やっと納得いくものを描く程度で、それを終えたら、また、誰かが求めるまでは書きませんから、やっぱり趣味とは言いにくいでしょう。
 世の中には、小生のように、無趣味な人がけっこういて、趣味のまえに少々ひけめを感じているというようなことがあるのではないか思います。いまどき、もっていないと欠陥人間かのように思われ、当人もなんとなくその気になっている趣味、これは、本当にもっていなくてはならないものなのでしようか。
 それには、まず、そもそも趣味とは一体何なのか、これをはっきりさせる必要があるでしよう。以下に、すこし、趣味の分析をしておきたいと思います。趣味が本質的に、どうでもいいものであれば、それを持たないことは必ずしも悪いことではないわけです。場合によると、無趣味は、むしろ胸をはるべきことなのかも知れません。
言い訳がくどくなりました。以上のこと、簡潔に、もう一度言い直しておきましよう。

第一部 わたしの趣味



















       










なし

第二部 趣味をめぐって思うこと

    
  1. 趣味の定義 
     「盆栽」が趣味であるとは、盆栽を見たり手入れすることが好きで、それを仕事のあいまの楽しみにしていることであろう。あるいは、音楽が趣味の人とは、音楽を専門・本職とはしていないが、音楽が好きで好きで、ひまをみつけてはこれに親しんでいるというような人であろう。とすれば、趣味とは、「余暇にする好きなこと」「本業の外でする楽しみ」等に定義してよいであろう。
  2. 余暇のもの
      趣味としての「盆栽」や「音楽」が、仕事そのもの・本業になったとすると、「趣味が高じて・・・」ということになる。だが、それは、仕事であって、もはや、趣味とはいわない。生活するためには、仕事をしなくてはならないが、これは、たとえ好きだとして、趣味ではない。趣味は、仕事のそとに行なわれる、余暇に楽しむ余技であり、遊びである。
     当人が仕事を「趣味だ」といっているとしたら、注意が必要である。気楽にかまえていて、楽しくなくなったら、無責任にこれを放棄する危険がある。仕事は、いやでも苦しくてもあくまでも責任をもって遂行してもらわなくてはならない。趣味でやってもらってはこまるのである。
  3. 目的そのもの
      趣味は、手段ではない。趣味において、生は、満ち足りて高揚し、楽し目的そのものとなっているのである。
  4. 遊びには尽きない
     趣味は、自己目的としての遊びと重なる。しかし、これにはつきない。生活全般にわたって趣味はいわれる。創造的生産的活動も、それが、本業外のもので、好きで自己目的的になっていて、楽しみなのであれば、趣味となる。
  5. 自分のためのもの
     余暇に、ひとの役に立ちたいとボランティアに出る人がある。趣味の人は、これとは反対で、あくまでも自分のために余暇を使うのである。自分の楽しみであり、自分を満足させることが中心になる。
     ボランティアを趣味にすることは可能だが、その場合、人助けよりは、何より自分がそこに楽しみを見いだしているということになろう。  
  6. 余裕としての趣味
     生活に追われているところには、余暇はなく、余裕としての趣味は成立しにくい。かつて、「趣味」のもてる人とは、余裕のあるひとに他ならなかった。「趣味」ということばには、いまでも、「道楽」とはちがった、有閑な者の「高尚な楽しみごと」という響きが残っている。  
  7. 勤労する者の趣味
     勤労者に余暇が可能になると、そこでは、当然、自分の好きなこと・楽しみなことがいとなまれ、多彩な趣味が成立してきた。仕事において疎外されていることの多いなかでは、趣味は、それからの解放の場と位置付けられるものになった。きつい単純な労働に生きるものの息ぬきにできるものは、単純明快なものにかたむき、高尚さは、二の次になった。パチンコも、いかがわしいあそびも趣味の範疇にはいるようになった。
  8. 仕事を生きがいとする者は、必ずしも趣味を必要としない
     仕事に疎外されて、余暇の趣味で自分をとりもどすものとちがって、その仕事が楽しく、そこに充実感をいだき、生きがいを見いだしているばあい、ことさらに、余暇の趣味にいこいの場をもつ必要を感じない。無趣味となるかもしれないが、好きなこと・楽しいことに無感覚なのではなく、余暇に好きなことをまわす必要がないだけである。
  9. 息ぬきを作る
     趣味というと、ひとつの典型は、「主婦」のものとの感がある。専業主婦は、潜在的には余暇があり余裕があるのだが、一日中うちでの生活のくふうに追われていて、これから離れることが難しい。その仕事は、シャドーワークといわれるほど疎外されたものではないにしても、そんなに充実したものでもない。ときどきは、これからのがれて、別の存在としての自分を楽しみたい、のんびりしたいという思いがある。趣味は、これを実現するのであり、潜在的にある余暇を顕在化させる。
     仕事人の趣味のはじまりは、余暇があって、なにかをはじめるというよりは、余暇をつくるために、趣味をはじめるという傾向がある。
  10. 趣味人
     かれは、仕事の能力は十分にあるのだが、仕事をすることを拒否されるか、自らがそう求めて、本業そのものをもたないのである。いわば、その生全体を余暇化させられ、あるいは、自らにそうしているのである。勤労しないで生きていくことは、社会の上層とアウトサイダー(世捨て人とか無法者・極道)として可能であったが、現代では、それがごく普通のものにおいても可能となっている。金もうけは最小限にして、あとは、もっぱら、好きなこと・趣味に生きていくのである。当然、ひまにまかせて、多様な趣味にかかわり、これに造詣の深い人間が出来上がる。これは、否定的な意味での趣味人であるが、他方では、ほめ言葉としても言われる。仕事も立派なことをやっていて、かつ多くの高尚な趣味をもっている場合である。
  11. 下手の横好き
     ふつうには、趣味は、「下手の横好き」である。仕事として、なりたつのであれば、それは、好きなことなのだから、本業にしていく傾向があり、趣味ではなくなる。「もう、趣味の領域を越えている」とほめるのであり、趣味ではなく、できるなら、本業としていくのである。いつまでもそれを趣味として楽しむことができるということは、「下手の横好き」だからである。
     趣味の人は、愛好家=アマチュアであるが、プロフェショナル=専門=職業ではなく、素人ということである。
  12. 好きこそものの上手
     逆のこともある。いくら上手でも、そのことへの需要が少ないとか、社会的な評価が低くかったりしては、仕事・本務にすることはできない。生活は、別のものに求め、好きで一番得意なものは、余技にとどめ趣味にする以外ないのである。趣味・道楽を、ホビー(hobby)というが、これは、得意なもの、おはこということでもある。
  13. 気楽なもの
     趣味において、ひとは、楽しみ、くつろいでいるのであって、それが重い責任を感じさせたり、苦悩を生じさせるようなものであってはならないであろう。
  14. 趣味はマニアになる
     好きなこと楽しいことであるから、これには熱をあげ、マニア(熱中者)になる傾向がある。
  15. あまり本気になってはいけない
     趣味では、度外れのマニア(狂乱)は、ゆるされず、「趣味にする程度」というように、節度をもったものになるのでなくてはならない。趣味が度をすごした場合、本業をおろそかにし身を持ち崩したり、飛躍して本業にしてしまうことになるが、いずれにしても、もはや趣味の領域を越えたものになる。
     宗教活動は、余暇にやるもので楽しみであれば、趣味といってもよさそうだが、自分の趣味欄に、宗教をあげる人は、「楽しみな村祭りの準備にいつも熱をあげて」というような場合、なくはないが、あまり言わない。その理由は、宗教は、悩めるものの切実な救いの営みで、これには、本気でかかわり、気楽な道楽にとどまっていないことがあげられるであろう。趣味欄にあげられたら、その宗教は、ふつうには、「茶化された」「冒涜された」と受け取ることであろう。多くの宗教は、これを信じるものからいうと、余暇のざれごとではなく、仕事をふくむ生活全体の基礎に位置づけられるものであって、この点からも、余暇のものとしての趣味には、なじみにくい。
  16. 害悪の顕著なものも趣味ではない。
     余暇であり、余裕になりたつものであるから、自他に顕著な害悪が生じるようなものは、趣味とはいえなくなる。「悪趣味」も、それが趣味であるかぎりでは、まだ、その「悪」は、たいしたものではない。 
  17. 趣味とは好み・好きなことである。
     余暇の時間にする日曜大工も、周囲のものに強制されて、いやいややっているのだとしたら、それは、そのひとの趣味とはいえない。趣味は、余暇にするものであるが、同時に、好き・好みになるものでなくてはならない。
     愛好しているものが趣味になる。好きとは、自分の手元に常々、引き寄せておきたいということであり、愛するとは、さらに、大切にし一体的でありたいということであろう。
  18. 趣味=好みとは、第二次の選択である。
     食べ物の好き嫌いは、食べられるものの選択の余地があるとき言われる。飢えていて食べ物であれば何でもよいという状態ではなく、その心配はなく余裕があって、しばしば余っていて、どれかを捨ててどれかを取り上げるということである。好みは、第二次の、より好ましいものの選択である。食べられるものか否かという「第一次の選択」の後に生じている、いわばぜいたくとしての「選択」である。  
  19. 楽しみなのだ
     趣味は、「味わう」ものである。好みのものが選択されるのであり、ゆっくりしみじみと味わい、これを楽しむのである。
     趣味の目的は、楽しむことである。楽しむとは、満ち足りて晴れ晴れとした生の高揚を感じ、快い充実感をいだくことであろう。「酒を楽しむ」という場合、酒に飲まれるのと違って、自我のコントロールがきいている。楽しさは、全体的配慮をもった、躍動する生の充足感情である。
  20. 好みは、個別的主観的になる。
      「たで食う虫も、好き好き」(de gustibus non est disputandum 好みについて は争われない)という。ひとによって、大いに異なるのが趣味である。各人の性格 ・能力、あるいは、その生い立ちのちがいなどから好みのちがいがでてくるのであろう。
     「好きな音楽」は、「よい音楽」とは別である。演歌が好きなひとでも、これを高尚な良い音楽と思っているわけではない。「好きなもの」は、個別的主観的で、「良いもの」は、より普遍的客観的である。  
  21. 趣味・好みは、普遍的でもある。
     他方では、趣味は、普遍性をもつことが期待されている。ほとんどの虫は、甘いものに集まる。de gustibus est disputandum(好みでは、けんかになる)である 。趣味・好き・好みは、食物にしても、好きな異性にしても、一致することが多い。ひとつのすぐれたもの好まれるものをめぐって、争奪戦がおこなわれる。みんな個別的で別々のものが好きなのであれば、そういうことは起こらないばずである。
     良いものを好きになるのがふつうということなのであろう。
  22. 趣味の押しつけ
      普遍的な、共通の面があるから、他の人も、自分と同じく好きなはずだと思い込み、これを他者に押しつけることが生じる。
     ありがたいばあいもあるが、こういう押しつけをする傾向は、自他の区別がはっきりしていない状態のひとに多いから、あまりよい趣味がすすめられることは期待できない。酩酊した人のすすめる「カラオケ」は、その典型であろう。
  23. 趣味は、個人主義的である
     趣味は、当人が楽しめるものでなくてはならないとしたら、それは、各人の主観に問うてみるのでなくてはならない。趣味は、その点で、個人を前提にした、個人の好みの問題になる。
     一つの団体の集団的行動は、それが余暇の楽しみであっても、趣味とはいいにくい気がする。  
  24. 趣味の持続性
     趣味は、反復するもの持続的なものである。ひとの好み・好きなものは、かなり一貫して持続的だからである。  
  25. 好きには、その理由が問われる。
      「どうして、これが好きなの?」と好きになることの根拠・理由が問われる。
     普遍的な傾向があるから、共通のその理由が問われうるということであり、かつ、そうではなく、好みに差異があって、質問者には理解できず、それを問うのでもある。
     しかし、概念的に明確なものではなく、あいまいな味わいとして各人が感じとっているのみなので、「どうしてか分からないんだけど、とにかく、これが好きなんだ、趣味なんだ」と答えることになりがちである。  
  26. 趣味は、選択された好きな余暇活動であるが、もうひとつには、その選択(好み)の能力そのものを指すことがある。
     当人には似合わない服装や持ち物をみて、「あの人の趣味は悪い」というばあい、そのひとの好み・選択の能力の低さ、その感受性の低さをさす。
     Geschmack, tasteなどは、趣味と訳されるが、主要には、「味わい」のことであり、その能力をさす。
  27. 趣「味」は、taste,Geschmackに対応させられているが、いずれも、味覚になる。
     味覚は、自分にうけいれられるかどうかを判定している、ごく主観的な感覚である。趣味は、好みであり、ごく主観的個別的になるから、視聴覚ではなく、味覚で表現される方がふさわしいのである。
  28. ヨーロッパの伝統的な趣味論
     これは、gustus(ラテン語), gusto(イタリア), gout(フランス), Geschmack(ド イツ), taste(イギリス)の論であり、いずれの語も、味覚としての「味わい」がもともとの意味になり、hobby(道楽=趣味)とは、直接の関係はない。その趣味論は 、主要には、芸術作品への審美眼、美的享受(つまり、味わい、味得)の能力を論じるものである。われわれの楽しみごととしての趣味とは、別ものである。しかし、「味わい」として、好きなものの選択能力として、われわれの趣味論の主観的契機の面の分析には参考となる。  
  29. 高尚な道楽としての趣味
     楽しみ事は、「道楽」であるが、われわれは、それが恥ずかしくないものの場合、道楽とはいわず、趣味というのが一般的である。
      かつては、趣味といえば、絵画や音楽の創作・鑑賞など高尚な、いわゆるヨーロッパの趣味(gustus)論の対象になるものが中心になっていたので、「趣味」でよかったのである。それは、下賎な道楽から自分たちの高尚な趣味を区別しておきたいということだったのであろう。
  30. 趣味は、みがかれる
     趣味は、高められる。ヨーロッパの趣味論は、審美能力としての味わいについて、それを訓練され教育され高められるものと見なして、洗練された「よい趣味」をいう。われわれの余暇の楽しみとしての趣味の方もまた研かれうるものである。教育され洗練される可能性があるから、多彩な「趣味の講座」が開かれているのである。
  31. いい趣味と悪趣味
     「いい趣味」は、審美能力の問題としては、深い味得能力ということになるであろう。しかし、われわれの国では、そのことよりは、ふつうには、高尚な道楽として、余暇の有効な利用をさし、あるいは、各方面の有用性の点から、そう評価されるのである。
  32. 「趣味は?」と問うことの意義
     「道楽は、hobbyは?」と問うのとちがい、「趣味は?」と聞くことは、「繊細 な感受性は?」「高尚な楽しみは?」と聞くことであり、その方向・姿勢を反省させ、ただすことになっていて、よいことであろう。
     「お見合い」や「自己紹介」では、かならずといってよいほどに「趣味」があげられる。話しに入りやすい相手の上品な好みであり、しかも各人に固有のものがあるからであろう。 履歴書には、「趣味」欄はあるが、「道楽」欄は、ない。
  33. 中毒になってはいけない
     アルコール中毒の人が、ふるえる手でコップ酒をもちながら「これが趣味でしてね」というばあい、当人は、趣味と見ているとしても、まわりの人は、「趣味」にとどまっているとは見なさないのでないか「好き」「このみ」を通り越し、自制のきく楽しみではなくなっており、しばらくは、病院にはいり、その「趣味」を断って「余暇」を過ごすようにすすめたくなることであろう。
     「好き」「好み」は、余裕のある第二次の選択になるが、中毒は、それが欠けると禁断症状のともなうものとして、自制のきかない病的な第一次の欲求になっているのである。余裕のある「好き」とか「楽しみ」、つまり趣味の問題ではなくなっているのである。
  34. 自制心を失うものであってはいけない
     道楽とちがうところである。道楽では身をもちくずし、家をつぶすことがある。趣味は、その点、限度をこころえ、自制心がしっかりしているものになる。同一のことがらについて、限度を越えてマイナスが顕著になった趣味を道楽といって否定的なレッテルをはるのであろう。
     しかし、それは、単なることばの問題にはとどまらない。自他の評価であり、心構え・態度の問題になるのであって、その違いは大きい。本来、趣味は、本業・仕事の余暇のリクリエーションであり、楽しみ・やすらぎとして成立しているのである。仕事・生活を崩壊させるようなものは、本末転倒で、趣味としては許容できないものになる。ただし、謙遜表現として、盆栽を手入れしながら「これが唯一の道楽なんでさあー」といったりもする。
  35. 趣味では、高まりに限度がある
     余暇の楽しみとしては、趣味では向上に限度がある。全身全霊をかたむける姿勢は、そこには希薄である。趣味は、ディレッタントに、アマチュアにとどまり、深いものは、期待できない。
     好き嫌いとか楽しみをこえて、苦悩をひきうけ、いのちがけでこれととりくむような真剣さが、趣味にはない。趣味では、大事は成就しない。というよりか、そのつもりがはじめから趣味にはないのである。
     さらに、趣味の「味わい」「審美能力」自体にも、限度があるといってよいかも 知れない。知的に概念的にしっかりしたものをもって、ことに対処していくのでなくては、感性のみでは、たとえそれがすぐれたものであっても、つまりは趣味能力にとどまっているのみでは、行き詰まってしまう可能性がある。
  36. 趣味の一致
     好みには共通性・普遍性があり、その同じ趣味において時に人は集合する。
     釣りの同好の人たちは、同じ船にのり、同じ魚を求めて、集団で一致して行動できる。
     余裕のある余暇のことだから、深刻さもなく、けんかにはなりにくい。なんといっても、趣味は、どうでもいいことなのである
  37. 趣味の不一致
      逆に、好ききらいは、各人異なる面もあり、この点からは趣味は一致しないことになる。ここでは、問題が多々生じる。ひとつのテレビでは、野球とドラマは同時には見られないから、せっかくの余暇がだいなしになる。
  38. 趣味が仲間を呼ぶ理由
     ひとりでは世界の演奏家を呼ぶことはできないが、多数になれば、これが可能になる。
     また、趣味は、各人異なるから、まわりの理解を得にくいことがあるが、同好のものたちは、相互に理解することができ、その趣味を正当化できる。
     趣味において、ひとは、楽しく嬉々として開放的になっており、友好的であって、ひとが引き寄せられやすい状態になっているのでもある。
     技術がいるものの場合、新参者は、古参のものから学べる場となり、また、後者は、自分を評価してくれる人を見いだして、相互に満足できるのである。
  39. 趣味は、そのひとを表わす。
     そう思われているから、履歴書に書くことが求められるのでもある。そのひとの好きなものとは、そのひとが自分に似合うものとして、引き寄せ求めようとしているものであり、その個性・本性がその対象選択に表われやすくなっているのである。
  40. 男の趣味・女の趣味
     かつては、区別がはっきりしていた。  
  41. こどもの趣味・おとなの趣味
     こどもは、特殊な社会以外では、一日中余暇であり、人生において趣味を先取りした存在になる。成長するプリミティブな存在、未来の担い手でありそこに彼等の趣味の特徴を見いだすことができよう。
  42. 年寄の趣味・若者の趣味
     年寄は、人生の仕事を終えての、人生の余暇をもつ。死を身近に感じる存在としての特殊性からの趣味がありうる。 若者の趣味には、若者らしいエネルギッシュなものがある。いずれの趣味も、それらを批判的に見るものから言われることがある。
  43. 趣味の国民性
     個人主義の国民と全体主義的な国民とでは、趣味に相違があろう。前者は、趣味の個別特殊性を尊重するが、後者は、趣味はみんな同じという考えにかたむきやすい。
     漁師は、釣りを趣味にはしないし、畑から帰った農民は、野菜づくりを趣味とはしない。だが、彼らのいるところでは、これらは、趣味になりやすい。
  44. 趣味の時代性
     高尚さは、趣味の特徴だったが、最近は、それはなくなってきている。余暇において、かつては、その仕事よりも高尚なものが求められることが多かったが、最近は、どちらかというと本業から一層下落した方向に趣味は見いだされていく。
  45. 趣味めあての産業
     レジャー産業一般は、各種の趣味を目当て成立している。これは、テレビ(の視聴率)と同じことで、国民を低いところへとどんどん引きずりおろしていく。
  46. 成金趣味
     ブランド品をもとめるのは、当人に趣味(審美)能力がないからである。見る眼がないから、「高級品」「優良品」という表示のあるものを選ぶのである。
     ブランド品を持ちたがるひとは、趣味能力の未熟さをお金で補おうとしているのだが、趣味能力自体を洗練していくべきであろう。
  47. 趣味は、社会的なステータスを表す
     「油絵が」「琴が」といわれると、優雅な生活を想像する。
  48. 仕事のなかの「趣味」
     接待ゴルフ、接待麻雀のあるところでは、これを趣味にせざるをえなくなる。人が楽しんでいるのに、これに付き合って苦しむことほど、ばかげたことはないからである。
  49. 趣味のあることは、かならずしも良いことではない
     本業・仕事にではなく、その余暇に趣味は成立しているのだから、趣味に生きがいを感じているものは、本務から逃避している面をもつ。
     あるいは、疎外された仕事を前提にしているばあい、趣味は、疎外の苦悩をいやすもの・その補償として成立しているのである。
  50. 趣味のないこと無趣味は、かならずしも、わるいことではない。
     仕事そのものが充実していて、余暇に生きがいを見つける必要がないということであれば、むしろ、無趣味(道楽のないこと)の方がまっとうだということになろう。
     好き・楽しみな仕事ならば、それは趣味的と言えなくもないが、趣味は、あくまでも、気楽なものであって、そこには、いのちがけで本気でとりくむ姿勢はない。苦難にたえぬく厳しさはない。いくら好きな仕事であっても、困難にたちむかい、場合によると使命感をもって自己のぎりぎりをためしていこうというようなところには、趣味という表現はふさわしくない。
  51. 仕事一筋のひとも、趣味をもつ意味はある。
     趣味は、べつの世界を見せてくれるから、仕事に広がりをもたせることが可能になる。また、その仕事が終焉をむかえたとき、仕事人間は、生きがいそのものを喪失してしまうが、趣味は、べつのあたらしい生きがいを形成してくれよう。
     さらに、余暇をもち、趣味をもつことで、べつの世界のひととのつながりもでき、周囲のひとにとって、つきあいやすい存在になることもあげられるであろう。とくに仕事人間は、その仕事内容によっては、つきあいが悪くなるから、その欠陥をおぎなうこともあろう。
     また、そういうひとは、なかなか休まないから、好きなものとしての趣味に気を向けかえることで、休憩が可能となることもある。
  52. 競馬批判
    馬を虐待せずに、竹馬にでものって、おまえ等が走れ。
  53. パチンコ・競艇批判
     独り占めするな、ギャンブルは公営にせよ!
  54. ドライブ・狩猟批判
     人をきずつけたくなかったら、凶器はもつな!
  55. 野球・サッカー見物批判
     みるものではない、やるものだ。夜(テレビ)は、時間どおりに終われ!
  56. ゴルフ
     日本に芝生は、あわない。芝生をけずるひまがあったら、公園の雑草でもけずれ。
  57. カラオケ
     おれをさそうな!