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短気は治せるかー怒りの抑制法ー



第一部 短気よもやま話
第二部 短気の分析論
第三部 短気の克服論

 おそらく、多くのみなさんは、自分を短気だと思っているのではないでしようか。私も、また、その一人です。
 短気かどうかの判断ですが、テレビあたりの表現は、おそらく標準を心がけているでしようから、それでひとつは測ることができましよう。テレビの天気予報で、例えば中四国全体の地図を示し、快晴のマークが全地域についていて、アナウンサーが、「広島県南部は、晴れ」、「広島県北部は、晴れ」と、同一画面のままに延々と「晴れ」「晴れ」「晴れ」と追っているのをじっと「気長」に聞いていると、私は、いらいらしてくるのです。つまり、「短気」なのです。
 短気を直すには、そもそも短気とは何なのか明確にしておく必要があります。まずは、みじかに短気な話がいろいろとありますので、その辺から入っていくことにしましよう。

 「早く短気の克服法を教えろ」といわれますか、それ、それ、そういう心構えがいけないのです。もっと、のんびりと悠長にかまえなくては。
悠長といえば、こんな話しがあります。
 春の陽気にさそわれて亀の親子が近所の丘にピクニックにでかけようということになり、バスケットに食料をいれてでかけました。
 ゆっくりゆっくりと丘をのぼって、頂上についたころには、もう夏になっていました。
 お腹がすいたのでとバスケットからかんづめなどをとりだしましたが、缶きりを忘れていました。それで子供に取りに帰らせることにして、両親は、お腹がすくのをがまんして待つことにしました。もうそのころには、秋もすぎて冬になっていました。
 やがてまた春になりましたが、帰ってくるけはいがないので、両親は、パンをすこしかじることにして、バスケットをあけました。すると、なかに子亀が隠れていて、「お父さんたちは、ずるい、自分たちだけで食べようとして。こうして隠れてみはっていたかいがあった」といったとか。のんびりした話しでした。
 もう「いらいら」しはじめましたか、よほど短気ですね

第一部 短気よもやま話

  • 通勤時の短気な話
     私がかつて勤務していた広島大学は、東広島の山奥にあり、多くの先生が広島方面から、電車で通勤していました。その通勤途中のことで、ときどき、短気な話を耳にしました。ラッシュと逆方向になりますので、楽なのですが、これが問題となるのです。つまり、ぎゅうぎゅう詰めの、体と体が密着した、いうなら「肉体関係」を強要された状態なら、それこそ単なる男一般になって、さして問題は生じないのでしようが、立っている者はいないか、まばらという状態ですから、先生は、先生らしくすわっていなくてはならないのです。そして、本来なら、席をおなじうするはずのない、あばずれの女子高生などと時々コンパートメントでお見合いさせられるのです。ということで、「肉体関係」ならぬ「お見合い関係」にはまりこんで、茶パツでだぶだぶの靴下と、頭のさきから足のさきまでイカレたものを前に「むっ」としているのに、少しでも不快なしぐさが見えると、先生、許し難いと「かーっ」となってしまうのです。
      同僚のけっこう穏やかな先生、例のように、ラッシュの「肉体関係」を満載したすれちがいの列車を横眼に山々の緑を楽しみながらの通勤電車でのこと、「先生」ゆえに激怒することになったそうです。前に、短いスカートをはいた「チョウ、むかつくウ」女子高校生がすわったのです。それが、なんと、足を組んだというのです。存在そのものにもともとから「むっ」としているわけで、これには、「かーっ」として、たまりかねて、「これ!」としかって、その足をひっぱたいたといいます。その女子高校生は、口をひんまげて、当の先生をにらみつけたそうです。それを見ていた中年のおばさんは、こともあろうに、女子高校生の方をなぐさめて、「がまんしんさい、あんたは、なんにも悪うはないんよ」と言ったと、その先生、その時のことを想起して、二人に対する怒りをあらたにしておられました。
     この先生、そのうち電車では見かけることがなくなり、通勤の時間帯を変えられたのかと思ったら、高速バスでの通勤に変えられたようでした。バスなら、皆前向きに座りますから、お見合い関係にならないし、第一、「大学行き」には大學関係者以外はまず乗らないので、むやみやたらと挑発されることはない訳です。電車通勤は便利で時間も短くてすみますが、むかつく毎日よりは、ましなのでしょう、別の、結構これまた一般の通勤通学客にいい気持ちをもっておられなかった二三の先生方も、いつのまにか、不便な高速バスの常連になっておられました。
  • 通勤時の短気な話をもうひとつ
     なにごとにも几帳面で厳格な先生の前に中年女性がすわったというのです。やはり、けっこうな「お見合い関係」の状態で、「先生」としてすわっていましたから、この女性にもそういうかまえをもたざるをえなかったようです。彼女は、日頃からそうしていたのかどうかは知りませんが、飲みもののあき缶をそのままにして下車しようとしたそうです。これには、先生、我慢ならず、注意されたようです。ところが、言い方がまずかったのかどうか、その女性はこれを無視したとのことで、その先生、ついに「かーっ」ときて、胸ぐらをつかんで激高罵倒されたとか耳にしました(非常勤の先生でしたが、そこの主任教授は、融通が利かないことでは右に出るものがいないという先生でした。おそらく、この教授が杓子定規なことを言って空き缶放置の女性の方の肩をもったのでしょう。翌年の名簿からはその非常勤の先生の名前は消えていました)。
     先生の多くは、時代をはずれて品行方正ですから、味噌も糞もごったまぜの列車のなかでは、不愉快になることが多いようです。それにしても、言葉で通じないからと、腕力にものを言わせようかとの姿勢をとられるなど、よほど激怒されたのだろうと思います。私もときには傍若無人なひとに出会うと簡単に「むっ」としますが、その先生のように「かーっ」としたことはないので、上には上がいるものと感心したものでした。
  • 学生もけっこう短気のようです
     私のところにいた大学院生のことです。日頃、実におだやかで、おとなしいと思っていたのですが、しかし、聞くところによると、かれも、駅で、列車に乗るとき、順番をくずした若者にたいして、いきりたって罵倒したとかいいます。
    たかが、そんなことでと、思い、自分の短気に自身がなくなるのでした。
  • ひとのことなどほっとけばいいのに
     話は、がらっと変わって、むかしの中国にこんなのがありました。
     短気な男が、町に出て、また、立腹して帰ってきたので、どうしたのかと聞いたところ、「暑い夏なのに、冬の帽子をかぶっている奴がいやがって、あたまにきた」ということであった。
     こういう人、けっこうにみじかにいるものです。私の、友人にやはり一人いました。町に一緒にでたとき、「みんなの眼は腐っている」と言って怒っていました。よけいなお世話でしようにね。
  • 温厚そうな先生も短気を自称
     私のみじかにおられた仏教に造詣のふかい先生で、その穏やかさは、「鑑真和尚」像を思わせるような方のことですが、ある委員会でのトラブルで、「短気な自分は、このことで議論しだすと、なにをしでかすかわからないから、君に後はたのむ」と会議をボイコットして帰られたことがありました。
     日頃は実に寛容で、慎重すぎるぐらい気を使い他人の意見を受け入れられていた、私などからみると「いらいら」するぐらいに穏やかな先生でしたが、その「鑑真和尚」に「自分は、短気で」と下駄を預けられてしまいました。いったい、私の短気は、どうなるのでしよう。
     この件では、対立した先生の方はというと、敬虔なクリスチャンで、凡人には真似しがたく献身的な方で、姿かっこうも周知の「ザビエル」図を彷彿とさせるような先生なのでしたが、俗人のわたしから見ても大したことではないのに、少しだまっていて我慢すれば済むものを、「どうしても、我慢ならない」と私に言ってこられました。
     温厚な「鑑真和尚」と、愛に満ちあふれた「ザビエル神父」のあいだにたって、俗人の私は、困ってしまいました。私は、まちがいなく短気なはずなのですが、「私たちの方が短気なのだ」と、神さま仏さまに近い方から下駄を預けられて、「長気」の方へ押しやられると、だんだん、自分の短気に自信がなくなってしまうのでした。
  • 私より確実に短気な先生もおられた
     九州の佐賀大学へいたときのとなりの研究室の先生は、このひとだけは確かに私より短気でした。経済の先生でしたが、出前がおそいといっては、激高しながら突き返し、学生が自分の気にいらないジーパンをはいているというので怒鳴りつけたりしておられました。もちろん教授会でも、しばしば「かんしゃく」をだして怒鳴っておられました。九大の経済の出で、あそこの教授会では灰皿が飛び交っていたといわれるぐらいで、激しいひとが集まっていたとかいいますから、この九州男児の先生も、感化されるところがあったのかもしれません。
     かんしゃくもちでしたが、めんどう見がよくて、けっこう人気があり、学部長になられました。しかし、再選で落とされて、それこそ激怒して、落選後まもなく「くも膜下出血」で憤死されました。教育学部だったので文系のものと理系のものが半々ぐらいいましたが、前者では、大声のひとの意見が通り、後者では、屁理屈の巧みなひとの意見が通るといわれているとおりに、文系のものは、その短気で大声の先生をおしたのですけれども、「短気」ですから理屈をながながとこねまわすひとではなく、理系のひとは理系のひとをおして当選させたのでした。
    あの憤死された先生の短気だけには、かなわないと思っています。
  • 怒ったことのない人もいる?
     私の授業のレポートでのことなのですが、「私は、怒ったことがありません」という女子学生がいました。美人でしたが(顔は想起できません。美人という範疇に属していたと想起するのみです)、何か影のうすい学生でした。小さいときから「怒り」を抑えることを強制されて心の底までもが「良い子」「おとなしい子」にさせられてしまっているもののように感じられました。
     また、広大は中国文学の老先生、まわりの誰もその立腹された姿は、みたことがないといっていました。教授会でも、ふつうなら、立腹するようなことに、確かに平然と対応されていて、さすがと感じさせられる方でした。
  • 短気の日本代表というと、信長でしようか
     これは、暴君型の短気で、性格はおおらかで、とらわれのない人だったようですから、心底から短気だったとは思われません。ただ、「待つこと」を訓練することなく育って、「待つ」ことへの耐性が低くなっていたのみの、ぜいたくな短気だったのではないでしようか。表現・表出をつつしまないから、少しの怒りも、がまんすることなく、そのままに放出していた、よくある「坊ちゃんの短気」だった可能性が高い。
     しつけの悪い犬は、安易にきばをむいて怒りをあらわにし、ひとに噛みついたりする。その点では、家康は、よくしつけられた大型犬といった感じである。
     われわれは、人物を品定めするとき、しばしば、「信長」だ、「秀吉」だ、「家康」だといいあって、いい気になっていますが、私は、「信長」「秀吉」といわれたことはありません。しかし、「家康」役をあてがわれたことはありますので、自身は、「短気」そのものと感じているのですけれども(私は、「借りた猫」のように、周囲の求めに常々従順で、自己主張というものが全然といってよいほどありませんので、攻撃的にでる機会が少なくて)、ひとから見ると、意外に、穏やかで、気長か、がまんづよい人間に見えるのかもしれません。
  • 『葉隠』の短気礼賛
     『葉隠』は、例の討ち入りの赤穂の浪人の行為を批判していますが(聞書1-55)、それは、「被害者の吉良さんを襲うなんて、暴力団のお礼参りとおんなじではないか」というような冷静な批判ではなく、もっと過激に速やかにやるべきだったとけしかけるものです。「短気にしては成ぬ事も有」(聞書1-67)と殊勝なことを一応は言ってみたりはするものの、深慮遠謀などとくどいことをいっていては駄目だ、失敗など問題ではない、ぐずぐずすることなく手早く即決でやれといい、即その日から報復をくりかえし殺しあい短気短慮のきわみをいった「長崎喧嘩」を、さっぱりとして見事と評価するのです。
     赤穂の浅野たくみのかみは、精神的に偏った「気違いに刃物」の状態にあったようで、あのひともまた、無思慮で短気なひとだったように思われます。短慮で自分の一生をだいなしにしたのみか、大勢の家来を路頭に迷わせてしまった、リーダー失格の、実になさけない人間の好見本といえましよう。
  • 三島由紀夫も「短気」だったようです
     かれは、待つことができないひとだったようで、待ちあわせで、ほんの少しおくれても「絶交」だといって許さなかったそうです。
     ドイツの哲学者のカントもまた几帳面で有名で、朝は5時きっかりに下男に起こさせ(この人は誰に起こしてもらっていたのか気になるところですが)、それが少しでも遅れると機嫌がわるかったといいます。散歩も定刻に行い、町のひとは、それを見て時計の方を改めたとか。それでも彼の友人のグリーンさんにはかなわなかったそうです。グリーンさんとカントは散歩の約束をしましたが、グリーンさんの御屋敷につくのがカントは少し遅れてしまいました。ところがグリーンさんの方はというと、定刻になると、さっさと馬車にのり、カントとは門のところで出会ったのに、遅刻を許すことなく、一人で出かけたといいます。
  • 「待てない」人は、必ずしも怒りっぽい人ではない
     カントやグリーンさん、あるいは、三島由紀夫の場合も根本的には、怒りっぽさとしての怒気の短気であるよりは、べつの心的事情から「気短か」で「待てない」ことになっていたのではないかとも思われます。
     こどもが「待つ」ことができず、親のいる道路の向かい側へととびだして、車にひかれるようなことがあります。この場合は、待つことで不安になりパニック状態になってしまい、それの解消にとかりたてられて、待てない短慮な行動にでるのでしよう。
     精神的に病んだりすると、病的に不安が頻出してきます。「待つ」状態は、そういうひとにおいて、ときに、強い不安・焦燥感をつくりだし、その不安解消にかりたてられると、待てない、「短気」な行動にでやすくなります。この場合、「待たされる」ことでまず生じるのは、怒気ではなく、不安のたぐいになります。この待てない「短気」は、「怒りっぽさ」としての、いわゆる短気には必ずしも進んでいかないように思われます。
  • 最後に、セネカ『怒りについて(De Ira)』から一例
  •  セネカのこの本は、「怒り」には有益なものは一点もないといい、怒りのもたらした残酷な例をたくさんあげ、またその克服法を詳論している怒りの古典になりますが、そのなかに、カエリウスという短気なひとの話(Ⅲ-8)があります。
     会食などでカエリウスのとなりになったひとは、大抵、その短気の犠牲になっていたといいますが、あるとき、きわめて温厚な知人がとなりになり、そのひとは彼に話を合わせて徹底して聞き役にまわって怒らせることをしませんでした。
     するとカエリウスは、なんと、どうして自分を怒らせないのだといって怒りだし、「なにか反対のことを言え、敵味方に別れられるようにだ」とどなったとかいいます。
「いらいら」しはじめましたか、けっこう短気ですね。


第二部 短気の分析論

  1. 待つことに耐えられないひと
     短気は、気長にものを待つことが苦手な精神の状態であるが、そういう待つことのできない状態すべてを否定的に「短気」というのではない。
    一目見て、短絡的に恋をして、その日のうちに結婚を申し込むようなひとを「短気な人だ」とはいわない。「おっちょこちょい」とか「軽はずみ」といったり、恥知らずとか気違い・ニーチェのようだ等という(ニーチェは、初対面の女性に一週間もおかずして結婚申し込みをしたといいます。そういえば、最近、卓球の人気者・福原愛ちゃんに、面識すらない男子が婚姻届をもってきて署名してくれといったとかニュースがありました。上には上がいるものです)。
     気長に待てないことはかならずしも有害ではなく、愛とか喜びにかかわる「待てない」「短気」は、お愛敬となり、「そそっかしい」「せっかち」などという。
  2. 短気というと、だいたいが、「怒りっぽい」ことだが・・
     しかし、怒りとは関係ないところでも、例えば、10円の投入できる電話が近くになくて、100円しかいれられない電話で「えい、めんどうだ」と市内電話するときとか、インスタントラーメンの説明書きに、お湯をいれて十分待つようにと書いてあるのに、「待つ」不快さと、十分にやわらかくなっていないことでの味わいの不快さを比較して、二、三分待って食べだしてしまうような人も「短気な人」だという。
  3. 「待てない」性格は、うらやましいものでもある
     「待てない」ことのうちには、よいものもある。連絡を翌日にまわさず、その日のうちにかたずけてしまうのは、相手にも好都合であることがふつうで、即断・即決は、このましい事柄になることも多い。
    ということで、「待てない状態」、広義の「短気」は、かならずしも、本人自身に不愉快な気質になるわけではない。先の100円の電話にしても、インスタントラーメンにしても、ニーチェの結婚申し込みにしても、本人は、そのことで不愉快にはならない。むしろ、その即断ですっきりし、早くたべて、早く電話して得した、とぐらいに思うものである。したがって、これらの場合、「短気」を克服しようなどとは思わないのがふつうである。
  4. 不安から発したものの場合
     こころを病んでいて生じる「待てない」状態がある。この「待てない」「短気」な状態では、パニックになっている迷い子のように、不安が中心になっている。そこには、怒気は、かならずしも存在していない。このような「待てない」「短気」は、病いの一症状にすぎないから、これを克服しなくてはとはあまり思わないものである。克服すべきは、病いそのものであり、神経症などの病いが克服されるなら、おのずから「待てない」「短気」も、病的な不安等とともに消失するのである。
     ということで、この種の「短気」も克服対象とはならない。
  5. 克服すべき短気は、怒りっぽさに限られる
     そこで残されるのが「怒りっぽさ」としての短気である。この状態に陥っているときは、当人には、強い不快感がある。しかし、それ以上に大問題は、怒りは、ひとを攻撃して傷つけ、しばしば物議をかもしだし、身をあやまつ原因になることである。短慮に短気をだして、失敗し後悔して、これは、できるものなら、克服し、「短気」ではなく、気長で穏和なこころをもちたいものと思うのである。
  6. 怒気としての短気は、克服できるものでもある
     どんなに短気なひとでも、それを我慢しなくては、自分が殺害されることが明白だというようなばあい、どうであろう、おそらくは、日頃は、短気を自称しているどんなひとも、耐え忍ぶのではないか。短気は、その気になれば、意志でコントロールできる。つまり、本人の心構え・やる気しだいであり、これは、克服可能なのである。
  7. 短気克服は、怒りを克服することになる
     克服すべきものとしての「待つことの出来ない」「短気」は、怒気を中心にした、いわゆる「怒りっぽさ」になるのだといってよいであろう。
     つまりは、短気の克服には、短気なひとが容易におちこむところの 「怒り」を制御することが主要な課題となるのであり、このためには、克服し撃退すべき対象としての「怒り」の諸相を解明することがまずは必要となる。
  8. では、「怒り」とは、なにか。
     怒りとは、腹立たしいものに腹を立てることである。腹立たしいものとは、自分の思い通りにならない気ざわりなもののことであり、腹を立てるとは、この気障りなものに制裁を加え苦痛を与えようと原始的に攻撃的な自己のかまえをつくることである。
  9. 思い通りにならない気ざわりなものとの解釈
     腹立たしいものは、自分が思い描いている、そのもののあるべき基準値から大きくはずれて、自分の思いの実現を妨害し、思い(=気)に逆らっていて、気障りな状態にあるのである。立腹するひとは、その対象を気障りなものと判定し、攻撃・加害にあたいするとのレッテルをはるのである。
  10. 二種類の気障り
     一方には、自分に対する態度が、ふつうのあつかいからはずれていて、仕打ちと理解されるような気障りな状態がある。これには、礼儀正しいひとは、仕返しをしなくてはならないと、「報復的な怒り」であいさつすることになる。
     もうひとつは、自分の思いを通そうとするような場面で、ふつうならこうだと思うような基準値から相手がはずれている場合である。こらしめ、むち打ち、叱咤激励しなくてはと、「懲罰の怒り」をもってすることになる。
  11. 怒りは弁護人のいない独裁法廷である
     気障りという有罪の判決は、独裁的に行われる。告発する検察官も判決を下す裁判官も、そのあと刑の執行をおこなうものもすべて同一の者が弁護人ぬきで行うのである。
  12. 怒りは戦争に良く似ている
     国と国の戦争では、相手が気にいらない、気障りだと攻撃していくことになるが、それが仕打ちに対してであれば、「報復の聖戦」となり、思いを通そうというとき「懲罰の聖戦」をする。
     怒りも、同じで、気障りなことが自分に生じると、その原因に対して、こらしめ、仕返しをしようと、攻撃するための臨戦的な体勢を構築していくのである。
  13. 怒りにはえんざいが多い
     思い通りにならない、気障りだという有罪判決の前提には、あいてについての取り調べがあるわけだが、これがじつにずさんである。警察でのとりしらべでは、警察官の「やったのだろう」との想像で始まるとしても、相手の言うことを聞き、実証的な裏づけがなされる。だが、怒りのばあい、はじめの「やっただろう」という想像だけで調書は作成される。それで確実に有罪となる。想像で、自分の親友が裏切っていることを思い描くと(現実にはそんなことはありえないとはっきりしていても)、それで十分、怒りの感情は涌いてくるはずである。
  14. 思いの基準値は、主観的である
     自分のこどもは、まじめでよくできるはずだと思い込む。基準値は、高くとられがちである。したがって、ほかからみると、その子の能力からは、そんなにはずれていないのに、親は「もっとできるはずだ」と過大に見積っていて、ついつい、懲罰を加えなくてはならないと思い、「このなまけもの!」と怒ることになる。
  15. 気障りとの解釈どまりでは、怒りにはならない
     国家のばあい、相手国がいくら気障りで不当なことをしかけてきたとしても、そう認識しているのみのところでは、戦争は起きない。被害をうけたのなら、それに見合う損害賠償を冷静に請求していくのみである。いきりたつことはないのである。戦争になるには、相手を武力で攻撃しようという戦いの態勢がつくられなくてはならない。
     怒りでも同じである。思い通りにならない、気障りだとしても、「そんなもんだ」と解釈するだけのところには怒りはでてこない。相手から害悪を与えられたとしても、冷静に損害賠償を請求する等の対応をするところには、怒りは生じない。立腹するには、この気障りなものという有罪判決をふまえて、さらに、加害=刑罰にふさわしいと判断して、苦痛を与え刑を執行しようと、体勢そのものを攻撃的にしていくのでなくてはならない。
  16. 攻撃も、冷静なものは、いかりにはならない
     相手を攻撃して苦痛を与えるという場合、冷静にこれを実行していくのでは、怒りにはならない。リンチを加える場合、恐怖する被害者のまえで、少しの怒りの感情ももたず、冷静にたんたんと仕事として、より効果的な方法をもって暴行を加えていくことが可能である。
  17. 怒りの攻撃は、なんといっても短絡的退行的原始的でなくてはならない。
     「馬鹿やろう」「糞ったれ」等々、怒りの表現は、呪術的世界へと退行する。物理的攻撃も、身体をもって、太古の先祖たちがやっていたような、「なぐる」「かみつく」「ける」等となる。知的な配慮・判断は、停止し、短絡的で「見境ない」状態になるのでなくてはならない。
  18. そして、全心身をもっての臨戦体勢の構築
     怒りは、攻撃であるから、身体は、そのような臨戦体勢をつくりあげる。その一連の自覚症状をもってはじめて「怒り」は成立する。攻撃的なかまえをとる身体へと自己をあずけるのである。
     攻撃のために心身は、変化していく。筋肉に血液を大量にはこぶために、心臓はおおきくはやく脈うち血圧をあげ、呼吸も大きく「いきまき」、受け入れたくないものに「むかつく」。
     顔面は、赤くなり、攻撃的に睨みつけ渋面をつくり、歯ぎしりをする。威嚇するために、肩をいからせ大きく見せようとし、狂犬のように牙をむきだすこともある。
  19. 攻撃は、それでも制御・制限されている
     いかりの攻撃は、見境ないものであって、「死ね」とか「殺してやる」と短絡的である。おそらく、ふつうのひとでも、子供のころからを数えあげれば、何千人もの人間を、心のなかでは殺しているはずである。
     だが、それが実際の殺人にまでなることは、まれである。制御し禁欲しているからである。相手をしっかりと見ながら、怒りの攻撃は、なされる。その怒りを出せば自分の人生の破滅するのが分かっているような場面では、身体表面にまではださず、血圧をあげながらも、顔にださないですませる。少しぐらい出してもよければ、「ふくれっつら」をする。もっとはっきりと攻撃してよければ、口を開いて「ばかたれ!」等といい、腕力をもちいてもよい相手なら、暴行におよぶ。しかし、「ぶっころしてやる!」と激怒していても、殺人となれば自分が国家から懲罰を加えられることになるから、自制するのがふつうである。
     この制限の必要がないかつての暴君は、したがって、ささいな怒りによっても、実際に殺人を犯してきたのである。
  20. 怒りの地下活動化
     怒りは、それがそのままに出せない場合、こころのそこに秘められたかたちで、感情というより意志としての「憎しみ」になって展開していくことがある。こわく暗い、怒りの変容である。
  21. 怒りの昇華
     いかりは、また、その人の人生のエネルギー源となり積極的なものになる場合もある。「くやしさ」は、悲しみと怒りのまじった創造的な感情で、前向きになっているのは、その怒りの感情においてであり、これを支えとして魂は元気をだしていくのである。
  22. 怒りは、汎化する
     感情は、一般的に「汎化」する。悲しみは、なにもかも悲しみ色にそめていく。喜びは、広く伝染していく。怒りもそうである。
     怒りは、「坊主にくけりゃ、袈裟までにくい」であり、そのひとの特定の事に怒っていても、しだいにそのひとのあらゆることが気障りとなり、立腹の対象となっていくことがある。戦争と同じで、敵に関係するすべてをたたくことで、攻撃は効をそうするのである。
     さらには、怒りは、怒りを向けている当人のみにとどまらず、その関係者にひろがっていくことがある。親の怒りは、ときに子供にも相続されていく。民族の憎しみは、未来世代へと相続される。また、怒られる方も、攻撃されるわけだから、しばしば、反撃に出て、怒りでもって反応していく。
     ただし、怒りの伝染の仕方は、悲しみや喜びのように近くにいるものなら誰にでもうつる「風邪」のような拡がり方ではない。怒りは、愛と同様で、「エイズ」「梅毒」のように濃厚な接触をするもののみに伝染し、近くにいても濃厚な接触をしないものには、伝染しない。
  23. 気分としての怒り
     気障りという認識はなくても、身体が臨戦体勢という緊張状態をつくると、感情としての怒りは成立する。身体が怒っているというわけである。それに見合うように、こころも、さかのぼって気障りという解釈を作り出していくことになる。不機嫌、いらいらというような怒りの気分は、当人の不調に由来するもので、立腹させる対象にはじまるものではないから、その攻撃のまとがなくて、身近などんなものでも、その対象にされていく。
     疲れていたり、不愉快なことがつづくと、心身にゆとりがなくなり、ついつい緊張して攻撃的に臨戦体勢をとりがちで、また状況を悪く誤解し気障りとみなしがちにもなって、怒りの感情をいだきやすくなる。
  24. 怒りの沈静化
     怒りは、時間とともにおさまっていく。「馬鹿やろう」「くずっ」等のレッテルをはって、相手の価値を下落させれば、そういう低いレベルの人間なのだからと基準値をさげ、気障りではない存在に見下げなおすことになっていく。
     また、怒りを表出することで、懲罰なり報復なりの攻撃を実現したのであれば、目的達成で、心身は、緊張を解除していく。
     放出しないままでも、時間とともに、「憎しみ」などにと昇格されることのない、ふつうの「怒り」は、おさまっていく。時間とともに、他の気がかりがどんどん出てくるから、過去のものとなるその怒りは、しだいに影をうすくしていくのである。
  25. 未解決感情としての怒り。反復律
     喜び悲しみの感情が、ことの終結感情だとしたら、怒りは、多くは、未解決感情になる。喜びは、新規の価値あるものを獲得し終えたと判断したとき、たとえば、宝くじは買ったときにではなく、当たったことが判明したとき、はじめて生じる。悲しみもそうである。遭難事故で、死亡が確認され、喪失の事実が確定してはじめて、不安から絶望・悲しみへと向かうのである。だが、怒りは、これから攻撃しようという衝動をもつことで生じるもので、怒りを感じているかぎり、未解決状態にある。それが解決された状態、つまり、懲罰や報復を実現した段階では、怒りは消滅する。
     怒りは、気障りな事態が出てきて、攻撃しなくてはと臨戦体勢をつくりあげるのであり、それが一回の攻撃で終結するのであれば、それで解決しおさまる。沈静化していく。だが、怒りの原因は、依然として解決していないままということが多く、この場合は、その解決がなるまで、いかりは、反復することになる。反復しないと、未解決の事態は、忘れられる。ふと思い出しては「むかっ」と怒りを反復していくのは、理にあっているわけである。
  26. 潜行則・浮上則
     気障りなことがなお未解決で、立腹しつづけるとしても、朝から晩まで怒っていたのでは仕事にならない。臨戦体勢をとるとしても、その場では、解決のならないときには、怒りは、つぎの機会をねらって、一応はおさまっていく。とくにべつの気がかりなことが出てきたら、怒りは、即座にそれに席をゆずる。しかし、それで怒りが消失したのではない。こころの底に沈みこんだだけである。ひまなときとか機会を見つけては、未解決の怒りは、浮上してくる。
     小さな怒りが生じているとき、別の問題の大きな怒りとか大きな別の感情(恐怖とか喜び)が生じたときには、先の小さい怒りは、大きなものに席をゆずって、潜行してしまう。しかし、消失したのではなく、大きな感情が静まって、その怒りが浮上してよいときには、ふたたび顔をだしてくる。
  27. 加算則
     特定の者に対して、ひとつの怒りがあるところへ、べつの問題でも立腹させられる場合、加算的になる。単に加算されるのみでなく、しばしば、相乗的になる。量的に加算されるだけではなく、質的に異なる格上げされたものとなる。
     怒りの気分にとらえられて、いらいらし緊張しているときには、そのベースのうえに生じてくる怒りを乗せることになり、かつ、気分としてのいらいらは、なんでもいいからと爆発の機会をねらっているので、そこへと爆発していくことになりやすく、単なる加算にはとどまらないものになりやすい。不機嫌なひとのところには、ひとがあまり近寄りたがらない由縁である。
  28. 減算則
     怒りの構えとは逆の心身の構えをとる感情が同時に生じるときには、怒りは、それだけ小さくなっていく。喜びは、怒りの緊張とは反対にのびのびとリラックスした体勢になる。恐怖は緊張はするが防御体勢をとって小さくなり血流を少なくしていく。それだけ、怒りは、小さくなっていく。愛するひとへの怒りは、その愛ゆえに、空砲をもって攻撃のまねごとをするにとどまることになる。
     べつの怒りが同方向へと加算的にならないときは、分散的になって、やはり、怒りは、それだけ小さくなる。
「いらいら」、もう我慢できませんか、そこをおさえて、もうしばらく・・

第三部 短気の克服論

  1. 短気は克服できるのか
     短気なひとは、「自分の短気は、生まれつきで」とよく言う。しかし、「坊ちゃんの短気」は、あまやかされて育ち、我慢するという「耐性」が発育不全となっているだけのことで、育ちのせいでなったものである。生まれつきではない。生まれつきは、けっこうのんびりしていて鷹揚なのに、育ちの悪さが、わがままで「待たない」という短気をつくっているのである。
     育つとき、甘えさせることなく、忍耐させるなら、いくら怒気がつよいひとでも、そとへは出さず、我慢して、家康のようになれるのではないか。
     自他の生死がその怒りにかかっているようなときとか、その怒り一つ次第で10億円が失われるか我がものになるという場合、短気をひとは出すであろうか。我慢するにちがいない。 短気は、意志で制御可能なのである(そういう場合ですらも、怒りをおさえられないような人は、ふつうではない。病気であるから、必要なら脳を開いて見てもらうべきである。脳内物質の異常な過不足があったり、腫瘍かなにかができているのかもしれない)。
     宗教の信者が気持ち悪いほど温厚な人間に変身することがある。「ありがたい世界」「仮の世」などと世界への解釈を変えて、気障りとの解釈をしなくなれば、当然、怒りは生じなくなる。
     つまり、通常のひとの怒りは、短気は、克服可能で、本人のこころがけしだいだということができる。その克服法は、その個性に応じて各人各様に見い出していく必要がある。以下にあげるもののなかに、共感できるもの・参考になるものがあるのではないか。少し列挙していくことにする。
  2. 皇帝・シーザーの寛容
     かれは、怒りにかられることを防ぐため、人の罪を「知らない」ようにと努めたという。知らなければ、怒りは生じようがないのであり、ささいなことについては、知らない方がよいと考えたのである。
     『聖書』に、ひとの眼の中のごみは、小さなものでもよく見えるが、自分の眼のなかのごみは、柱のようなものでも見えないという 。
     ひとの悪・欠点は、ささいなものでも見え、気になる。ささいなことでも、気障りに思うと「むっ」とすることになる。 とるにたらないことは、つとめて、見ないように聞かないようにしておくのが一番である。知らないことは、どんなに短気なひとであっても、怒ることなどできない。
  3. 正確な情報を
     昔話で継母が継子を追い出す常套手段は、父親に継子のことでうそをふきこんで父親を激怒させて追い出させるものになる。怒りは自分にとって気障り・思い通りにならないという解釈をするのでなくてはならないが、情報が片寄るとなんでもないことなのに、気障りと判定してしまう。
     事柄がうまくいっていない時とか、気分がすぐれないときなどは、とくに、悪い方に解釈したり、曲解しやすい。だが、ひとは、そうむやみに悪意をもってするものではない。ひねくれてとって誤解して怒るという「ひとり相撲」にならないように、真相を冷静に捉えなくてはならない。
     どしどし怒ってかまわないから、まずは、正々堂々と怒れるように、みんなが怒って当然と肯定してくれるように、正確な現状認識をしなくてはならない。


    ・・・・相手を 低く評価すること・・・・
  4. 基準値を低くすること
     現実を正確に認識し、正しい想像をしたとしても、その事実について、これを自分に「気障り」、思い通りにならないものと解釈するのでなくては、怒りには進んでいかない。
     自分の「思い」を低くし、気に障るその「障る」基準をぐっと下げておけば、そうそうは、立腹しないですむ。「超むかつく」女子高生をみて、高校生は、もっと高尚な存在のはずと、「思い」を高くすると当然「むかっ」とする。「気」にかけないで、世の中には、ああいう世界もあるのかと別世界のこととして放置しておけば、「むっ」としないでもすむ。
     われわれは、ひとに多くを期待してはいけない、よくばって高いものを望んではいけない。怒りが生じたら、期待しすぎていることを反省しなくてはならないのである。
  5. 鈴木正三のことば
     家康のもとにいた武士でのちに出家した鈴木正三は、人にはもってうまれた能力というものがあるのだから、低劣で至らぬことをしたからといって、そのひとは、自分の精一杯をしているのかもしれないから、むやみに怒ってはいけない、囲碁が下手だからといってひとは怒らないであろうといって、つぎのように述べている。
     「いづれの人も行ひあしくせんとはあらねども、心たらずして、我身をもほろぼすなり。たとえば、貧人の過分のふるまいかなわざるがごとし。されば、己が分限より上のはたらきなるべからず。とかく心のいたらざる故と心得て、結句憐れむ心あるべし」と。そして、「おのれすなおなる時は、うき世にあしき人なし。おのれひがごとなる時は、あしき人世に多し」といい、「我よきに人の悪ろきがあらばこそ、人のわろきは、我わろきなり」という歌をあげている(鈴木正三『盲安杖』)。
     亀には亀の「分」があり、にわとりには鶏の「分」があるのであって、亀がのろまだと怒ったり、鶏が天高く飛ばないといって怒るのは、無理難題をいいかけているのであって、怒るものが悪いのである。
    そういえば家康(東照宮遺訓)に「己を責めて、人をせむるな、及ばざるは、過ぎたるより勝れり」というのがある。
  6. 『書経』(君陳)のなかに次のようにある
    爾無忿疾于頑(なんじ、頑に忿疾すること無かれ)
    無求備于一夫(備を一夫に求むること無かれ)
     相手を「頑」、「頑迷」「頑固」と低劣な人種ととらえることで、「あれは頑迷で融通のきかない愚か者なのだから、あの程度しかできないのだ、まあ無能な彼としてはよくやった方だ」と解釈するわけで、そうなれば、忿疾し怒ることはないであろうというのである。
     下劣な「一夫」なのだから、かれには、「備」・完全なものを求めることはできないのだ、そんなものを求めるおまえさんはおめでたいといっているのである。亀に駿足を求めるのは、これを求める方が愚であり、からすに美声を求めて怒っているようでは、お前さんは、アホだと。


    ・・・・あいてを高く評価すること・・・・
  7. 相手の低いところのみを見て怒るのも一面的
     気障りなことが生じると、そのことのみにとらわれて、それにあわせて相手を見下しがちになる。悪意の色めがねで相手を見てしまうのである。怒る前には、寛大な立派な人と評価していたはずなのに、これを変えて善悪の区別のできないちゃらんぽらんな奴と見下し、高潔な人をして、ひとづきあいの悪い独善家とこきおして、その全人格を懲罰・攻撃の対象とし、怒りの炎に油をそそぐことになる。その炎が鎮火してから、後になって、自分はなんとひねくれた解釈をする卑劣な人間かと後悔することになる。
     そうするまえに、もう一度、全体を見渡し、その親切で寛大であったり、まじめで高潔であったりという評価されるべきところから見て、立腹の原因となった恐らくはささいな過失を、故意と邪推するのではなく、冷静に、誰もがおかす偶々の過ち、些事と位置付けて見るべきであろう。
     ひとが悪人に出合うことは、ごくごくまれである。しかし、己自身が悪意・邪推を出かすことは、そんなにまれではない。ひねくれて誤解し曲解する邪悪な自己を恥ずべきである。
  8. マイナスを別のプラスでうめあわせよ
     ひとは、してもらったことは、すぐに忘れるが、してやったことは、いつまでも覚えている欲深い存在である。
     ささいなことで立腹されると、ひとは、「こんな小さなことで。私は、彼にはいつも尽くしてやっているのに。あれぐらいのこと、私に対しては我慢するのが当り前だろうに」と居直る。それは、おそらく、その通りであろう。彼は我慢すべきである。ただ、問題は、逆のばあいも、真実であるということを忘れてしまうことである。
     気障りなマイナスの状態が生じていても、「あのひとには、常々、お世話になり、大きな借りがあるのだ」という相手には、そう無闇に怒るひとは、いないであろう。何十倍もの恩恵をこうむっているとき、わずかな損害が与えられたとしても、ひとは、うめあわせて、余りあれば、怒ることはないであろう。問題は、現実には、そうなのに、われわれは、してもらったことは、すぐ忘れ、してやったことのみをしつこく反復するという強欲な存在にとどまりがちなことである。
  9. 自分については低姿勢に!
     セネカ(『怒りについて(De Ira)』)はいう。大王・皇帝ですら、控えめにふるまい、人を許している、それなのに、君は、自分を何様とうぬぼれて、暴君的なふるまいをしようとしているのかと。「多くのものは、敵さえも許した。それなのに、私は、なまけ者、そこつ者、おしゃべりを許さないでよいのか」と(Ⅲ-24)。
     『聖書』に、罪を犯したものに石打ちの刑をというとき、イエスは、「あなたたちのうち、罪のない者が、まず、石をなげつけなさい」と言ったとある。自分には、怒る資格があるのかと、謙虚に問うてみる必要がある。
     自分にはもっと高価なものがもらえるはずだとか、自分は、もっと価値ある存在で、もっと評価されるはずだと思っていると、こころは満たされず、不満となり怒りとなっていく。自尊心をもつのは、よいことだが、短気で怒りっぽいひとは、それよりも、謙虚さをもつべきである。短気なひとは、自己中心的で、自身を過大評価し幼児的低レベルに徘徊する「やっかい者」なのである。謙虚になって、「そんな自分にしては恵まれすぎている」と思い直すなら、うぬぼれた怒りは、おさまることであろう。

  10. 逆に、自分を高く評価する
     セネカは、「ほえる犬どもをゆっくり見返す大きな野獣」のように、「波が空しく裂ける巨大な岩礁」のようにあれという(Ⅲ-25 )。「大きなこころ」をもって、高邁なものになれ、そういう自分のまえには、ささいな争いは、むなしく、小さく、下らないことが分かってこようと(Ⅲ-32)。
     大きなこころをもって、あらゆるものを受け入れ許し、高貴なこころがまえをもって、下賎な欲望など問題にせず、下らないことは相手にせず、高く飛翔せよと。
  11. 聞き流す
     気障りな腹立たしいものに出会っても、これを遠ざけ、一笑にふし、大目にみて「あそびか冗談とみなす」ようにせよとセネカはいう(Ⅲ-11)。
     セネカによると、マルクス・カトーは、かれとは知らなかった者に浴場で殴られた。あとで、許しを乞いにやってきたとき、かれは、「わしは、なぐられた覚えがない」と答えたという。「偉大で高貴な人間は、百獣の王が小犬たちのほえ声を意にかいさないように、聞き流す」ものだと(Ⅱ-32)。
  12. 風ふかばふけ、雨ふらばふれ
     一休さんに「過去よりも未来へ通る一休み、風ふかば吹け、雨ふらば降れ」というのがある。
    超然として、怒りも悲しみもさらっとながせということであろう。 
  13. 身のひいきをやめよ
     江戸時代のこと、「磐珪仏智弘済禅師」のもとに、短気な僧がきて、「それがしは生まれつきて、平生短気にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれども、なおりませず。私もこれはあしき事じゃと存じまして、なをさふといたしますれど、これが生まれつきでござりまして、直りませぬが。・・・」というと、
     磐珪和尚、「そなたは、おもしろいものを生まれついたの。今もここに短気がござるか。あらばただ今、ここへおだしやれ。なおしてしんじやうわひの。」
     すると僧、「ただ今はござりませぬ。何とぞ致しました時に、ひよと短気が出まする。」
     磐珪和尚いわく「しからば短気は、生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひよつとそなたが出かすわひの。何とぞした時も、我がでかさぬに、どこに短気があるものぞ。そなたが身のひいき故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがつて、そなたが出かしておいて、それを生まれつきといふは、難題を親にいひかくる大不孝の人といふものでござるわひの。人々皆親のうみつけてたもつたは、仏心ひとつで、よのものはひとつもうみつけはしませぬわひの。しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事でござるわひの。我でかさぬに短気がどこにあらふぞいの」と(『磐珪仏智弘済禅師 御示聞書』)。 
  14. 念にとりあわぬこと
     同じ磐珪和尚、「身のひいきの強さに、瞋の腹を立て」るもので、「身のひいきさへせねば、一切の迷ひは出来はしませぬわひの」と言い、さらに、「たとひ、ふと思はずしらずに、瞋る事御座るとも、又おしやほしやの念が、出来ませうと、それは、出次第にいたし、其念を重ねてそだてず、執着致さず、おこる念をやめふとも、やめまいとも、其念にかかわらざれば、おのづから、やまいでは叶ひませぬ。」という。
     怒りがこころに生じても、それを気にとめず、そこに思いをとどめず放っておけば、自然におさまるというのである。「むっ」としても、そのことをそれだけにして、気にせずそこに停滞しないで、つぎにどんどんすすむのである。別のものに注意が向かえば、即その怒りは、消失するはずである。
  15. 「仁者は、怒らず」
     仁愛は、怒りとは反対の態度をとる。愛のかまえをとるものは、心身おだやかで、やさしさにあふれている。怒りの攻撃・緊張から、反対方向へ向かっているから、怒りにくいし、怒っても、愛のかまえがこれを小さくすることになる。
     愛は、相手を大切にし献身しようという感情であり、怒りが自己中心的で相手を攻撃否定しようとするのとは反対になる。相手を立て、相手のために自分を尽くしていこうとの自己否定的な愛のもとでは、相手を攻撃しようとする怒りは、肩身が狭い。
  16. 喜び・悲しみ・恐怖等の反対の感情をもつのも一法か
     怒りは、攻撃のかまえをとるのだから、心身が反対に防御姿勢をとる恐怖などは、怒りをしずめることになる。チンピラに「むかっ」としても、背後に本格的なやくざのひかえていることを知ると、怒りは、鎮まるかもしれない。
     沢庵だったか白隠だったか、鬱々と沈みこんでいる者を元気にするために、これを怒らせるという方法をとったという。めちゃめちゃなことを言って怒らせて、元気にしたのである。逆に、怒りに対しては、悲しみが中和作用をしてくれることになる。悲しみでは、心身は生気をうしない、うちに閉じこもってしまう。その 逆の体勢をとる怒りは、この悲しみをもって和らげることができるかもしれない。
     喜びは、攻撃的緊張の怒りと反対に、のびのびとリラックスさせる。にこにこしながら、怒ることは、困難である。喜びに有頂天のものが、同時に激怒することは、不可能である。
  17. 「富者は怒らず」
     豊かで幸福を感じているものは、余裕があって、怒りにくいし、怒っても、攻撃には、手加減を加えることができる。
     幸福である者は、自分の人生が総じて恵まれている、幸運であると総括的に判断している。貧困であっても、人生にめぐみを発見できているものは幸福である。幸福な人は、どんなところにでも、めぐみを見い出すことができるひとである。その数限りない自分へのめぐみのもとでは、気障りな怒るべき状態になったとしても、それは、おそらくささいなマイナスであって差し引きは、やはり幸福である。「むっ」とはしても、幸福感のもとではそれ以上にはすすませないことであろう。
     こころの豊かな者は、富者である。余裕があり、ゆとりがあって、寛容で、怒りとは無縁である。だが、怒りは、富者に取りついた貧乏神のようなもので、遠からず彼を「破産」させる。
  18. 心身に余裕がないと、いらいらする
     セネカによると、「疲れた人は けんかを さがす」 (Ⅲ-9)ということばがあるとのこと。確かに、疲れているときには、心身に余裕がなくなり、短気になりがちである。いつもなら見過ごせることでも、気障りとなり、「かっ」とする。
     仕事がうまくいっていないときなども、寛容さがなくなって、短絡的に事態を悪くとらえて、立腹しやすくなる。
     そういう人間が怒りやすいことは、こどもでも知っていて、そんな状態に陥っている親には近づかない。
     心身をリラックスさせる方法を知らねばならない。身体をそうするだけで、こころもそうなっていく。風呂にはいってのんびりするとか、各種の体操、散歩もいい。ゆっくりと寝るのも手である。
     こころをリラックスさせる方法は、人によって相当異なる。野球観戦がいいひともあれば、般若心経を口にするのがいいひともある。万人向けのストレートのものは「自律訓練法」など、臨床心理学にくわしい。もっと即物的には、アルコールとか精神安定剤など薬物の使用がある。
  19. 表現を抑える
     いったんこころに生じた怒りも、これをそとに出さなければ、無事で済む。
     自分の怒りと正面からぶつかって、これをおさえこんでいく、「懲忿」(怒りを懲らしめる)の正念場である。
     がまん・忍耐・堪忍である。
     家康(東照宮遺訓)に、
     「勘忍は、無事長久の基い、怒りは敵と思え」
    とある。
     こう心得て、手を変え、品を変えて、本ページにあげているような怒り否定の様々のやり方をこころみていくことだが、要は、本人が、「自分は短気なので」とあまえることなく、一に我慢、二に我慢と、我慢しようという気になることでろう。
     やる気になれば、ひとは、どこまででも我慢できるものである。我慢できないのではなく、自他にあまえて、「我慢しない」というのが多くの短気な者の真相ではないか。周囲も短気をさほど人格欠損とは見なさず、キレルのは、キレさせる方に問題があるのではとキレル者を甘えさせる。怒りを示した者は銃殺というところでは、どんなに短気で心にムカッとしたとしても、決してこれを表に出すことはないであろう。
  20. 超我慢・超忍耐・超堪忍
     セネカは、普通には激怒することになるものをぐっと我慢した例をいくつかあげている。
     ローマの騎士パストルは、ガイウス帝に息子を殺されたが、当日、帝は、パストルを食事に招いた。パストルのこころは、怒りに煮えたぎっていたのだが、一切それを顔にださず、平然と、酒をのみつづけたという。もし、そこで怒りを出せば、ガイウス帝によってもうひとりの息子も殺されるであろうことを承知していたからである(Ⅱ-33) 。
     超我慢をもうひとつ。
      ペルシア王の臣下ハルパゴスは、王によって自分のこどもたちを殺され、その肉を食べさせられることになった。王は、かれが腹いっぱいそれを食べたのを確認して後、子供たちの 首をもってこさせて、見せたという。それに対して、ハルパゴスは、激怒する自己をぐっとおさえつづけたということである。
     どんなひどい仕打ちをうけての激しい怒りも、このようにおさえられるものなのだとセネカはいう。(Ⅲ-15)
  21. 我慢しておれば、うまくいくものだ
     必有忍(必ず忍ぶこと有れば)
     其乃有済(其れ乃ち、済る有り)
     有容(容るること有れば)
     徳乃大(徳乃ち大)
    と『書経』(君陳)にいう。
     どんなことがあっても、我慢することがあれば、
     それで、ことはうまく成就するものである。
     寛大に受け容れることがあれば、
     おまえさんの 人徳は、つまりは、大したものだ。 
  22. 汎化中断
    「怒りを遷さず」という。怒りは、ときに、「坊主憎けりゃ袈裟までにくい」と汎化していくことがある。人の一つの行動の失敗に怒っているのに、それをその人の人格そのものへ、周囲の関係者へと広げていくことがある。「怒りを遷さず」である。その怒るべきことには、怒ってよい。それは、相手も認めることであろう。問題は、それを越えて、怒るべきことでもそういう相手でもないものに汎化していくことであると。
     汎化した怒りは、不当な攻撃であるから、相手もだまってはおらず、怒りは怒りを呼んでおさまりがつかないことになる。「怒りて、しかして怒らず」ともいう。怒るべき事は怒れ、しかし、当たり散らして怒るなというのである。
  23. 怒気をよそに移す
     沢庵和尚だったか誰だったか、怒気などのいやな「気」は、ひょいと花にうつし、月にうつして持って行ってもらえといっていた。当座の関心を別のところへ向けることで、怒りは、霧散する。「火事だ」という声を聞いたら、喧嘩は中断するだろうし、怒りもその声が奪い去る。
     怒りからのがれられそうになかったら、自分の怒りのなかにとびこむのも手かもしれない。つまり、怒っている自分をとっくりとながめるのである。「あっ、心臓がどきどきしている」「むかっとするが、この感じは嘔吐のときの むかつきと違って、胃よりは、相当上部に位置しているなあ」等と自分の怒りに注目するのである。怒っているときは、相手の気障りなことに意識を集中しているのだが、その意識を自分の怒り自身にもっていくことで怒りの「気」は、怒りから離れてしまうのである。
  24. 時間をかせぐ
     怒りたくなったら、怒る前に、まず、指を折って「十」数えろといわれることがある。ひと息(ゆっくりとした深呼吸)いれると「むかっ」とした程度のものならおさまる。
     セネカは、怒りを鎮める最良の薬は、「引きのばし」だ、時間をかけることだという。「時間にゆだねる」(Ⅲ-12)ことだと。
     激高していても、その日は、電話しないで、なんとかがまんして、翌日電話して思いきり罵倒してやろうと、時間をおくと、翌日の電話のときには、けっこう鎮まっているものである。
     心の中で、 打ち首にしたり八つ裂きの刑にして、その凄惨な想像図にゾーッとしてみたり、「昔はいい男だったのに、生活に追われているのかなあ」等と想起・想像を繰り返して、時間があれば、しだいに冷静に客観的総合的に判断できるようになる。
     とどのつまりは、激高するほどのことでもないと思われてきて、怒らずに済ませられることがあるものである。
     第一、激怒、激高の状態は、身体を攻撃体勢にして緊張させ大変に疲れさせるものなので、そう長い時間、その状態にはしておけず、身体的には、おのずから限界があって、鎮まってしまう。その間、ひとりでおれば、怒りは、ひとに迷惑をかけないで済むわけである。
  25. 怒りの発作には、ごく短時間の所作で間に合うことがある
     短気な『葉隠』のなかにも、つぎのようなことが記されている。
    「心を静むる事。ツノミ(唾飲み)也。秘事也。立腹の時も同前也。額に津(つば)を付けるもよし」(聞書11-53)と。怒りにとらえられた自分を、ほかのことに気をうつすことで解放するひとつの方法になるであろう。立腹するときは、消化器系の働きは停止気味となって、つばも出にくくなっており、これをツノミ(唾飲み)するには、時間がかかろう。その間、怒りは、気をそれにと奪われてしまい、怒りを停止する余裕をもてることになるという次第であろうか。あるいは、別の作用もあるのかも知れない。試して見る価値はありそうである。発作的な怒りは、ものの30秒も抑え得ておれば、静まるという。その短時間を別のことに意識を向けておければ、指を折って数を数えてみるとかゆっくりと深呼吸に集中すれば、発作はおさまる。 
  26. 我慢には報酬を
     商売人は、こころのなかでは「むかーっ」としていても、これを顔に出すのはぐっと我慢して、にこにこ顔で応対する。「このドあほうの客にこれを売りつけられれば、20万円のもうけになるのだ。この我慢と笑顔の演技料は、たった10分で20万円になるのだ」と。
     怒りのもたらす害悪・損失等は、ふつうでもこれを想定しながら怒ったり我慢しているものだが、それを、しっかりと想起し拡大図でも描くならば、怒りの展開にブレーキをかけることができる。
     立腹しそうになったら、その立腹で生じるであろうマイナスのものを(例えば、人間関係を大きく損なうとか、自分の評価が相当下落するとかを)出来るだけ数え上げ、逆に、その怒りを我慢することで生じたり保てるプラスの価値を(たとえば、そのことで昇進がうまくいくとか、寛容・忍耐にすぐれると高く人物評価される等)、できるだけ想起して、それら賞罰の想像図でもって、怒りをおさえつけ我慢するのである。
  27. 短気な者は、弱いものには強いのだ
     ひとは、その怒りでどれほどのマイナスが生じるかを、けっこう冷静に判断しながら怒っているものである。短気な社員も、社長に向かっては怒らない。だが、周囲のもの、特に目下のものや、うちのものには、短気であり、暴君的である。短気な者は、強いものには弱く、弱いものには強いのである。
     短気な者は、強い犬の前では尻尾をまいてこそこそ逃げ、弱いものを見つけたら、やたらと牙をむいてほえたてる、卑劣な実になさけない犬である。
     短気を本式に克服しようと試みるものは、この卑劣な狂犬の性格を克服して、弱いものの前でこそ、おだやかに過ごせるようになるのでなくてはならない。
  28. 無害化
     そとで、激怒するようなことがあっても、これは、必要なら、つまり、昇進にさしつかえるとかを考えて、だいたいがこころのなかにとどめて我慢できるものである。それで我慢してうちまで帰り、ふとんをかぶって「社長の馬鹿やろう、死んでしまえ」と怒鳴るのである。 
  29. 転化
     ある人への怒りのかわりに、べつの人に親切にしたり、愛をそそぐという手もある。 
  30. 昇華
     「くやしさ」は、健全なかたちをとった怒りになりうる。あたりちらすようなものもあるが、多くは、前向きで、相手を攻撃否定するのではなく、くやしさをバネにして自分の方を強化し高めていこうとする。怒りの攻撃のエネルギーを、創造に振り向けるのである。
     立志伝中の人物に「くやしさ」をバネにして成功したといわれるひとは少なくない。 
  31. 反省
     セネカは、毎夜寝る前に、一日を反省せよといっている。毎夜、良心の法廷のまえに立って裁きを受けているなら、やがて醜悪な怒りはすがたを消していくことになるだろうと(Ⅲ-36)。
     たしかに、怒りは、少し反省して見ると、どんな軍事法廷よりも独裁的で、現実のどんな犯罪者よりも、犯罪的で、醜悪である。怒りの醜い顔を鏡に映して見ることからはじめて、さらに醜い内面への反省を重ねていくことは、怒り・短気を克服していくのに、よい薬となりそうである。
とうとう、ここまで読んできましたか。あなたの短気は、気にするほどのものではないようです。