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2026/03/19

世界観を創る苦痛

7-4-1-2. 法的権利と道徳的権利   

 権利の主張は、私たちの国、日本では、あまり好まれない。権利とか正義とかを振り回す者は、嫌われがちである。自分の権利(right)を持ち出すと、厚かましいと受け取られ、ずうずうしい厚顔・無恥と見られもした。自己主張が好まれない風土であった。謙虚さを貴び、義務・責任は語っても、権利を言挙げすることは希であった。正義(right)なども、同じで、正義をもって対応する人は、煙たがられる。だいたい、正義への感覚が欧米の人と我々では、異なる。日本では、邪悪な者からの不正を被っての泣き寝入りは、なさけないとは思っても、その被害者を悪とは見なさない。だが、欧米では、悪を排撃しないで泣き寝入りすることも、正義の反対の不正義(悪)の内に含まれる。正しいことは、臆することなく主張されねばならないのである。欧米では、そういう精神的風土のもとで、正しい(right)こととしての権利(right)は、それがあるのなら、それとして堂々と主張していくものになっているのだろうと思われる。

その意気込みの延長上に、法的にはまだ認められていないが、自身が正しいと思う享受の自由についても、これを権利とすることともなっているようである。その法的になってない権利は、そうあるべきものとして主張されて、道徳的な権利ということになる。我が国でも、漸次、法的権利のみでなく、道徳的権利も言われることが多くなってきているようである。禁煙運動は、成功して落ち着いてきているが、禁煙運動が過激になっていたころ、禁煙権、嫌煙権を武器にしていた。喫煙者は、劣勢になるとともに、同じ土俵で互角に戦いたいと喫煙権を主張していた。いずれも、幸福追求権や生存権のうちで問題とされたもので、それら自体が法的権利として承認されたものではなかったと思う。道徳的権利をもって戦いあっていたということであろう。

 法的権利に対して道徳的権利は、法で強制して刑罰の問題とするものではなく、あるべき善を掲げたもので、侵犯禁止の義務を強制できないから、弱いといえば弱い。だが、場合によっては、法的権利を導き出す先行のかけがえのない根本的な動力となっていたのでもある。人権は近代のものだが、人は根源的に諸能力において等しく、自然超越の源をなす理性存在として同一であるから、万人、等しく尊重されるべきであり、その享受の自由の正当性としての権利は人類誕生とともにあってはずである。道徳的な権利としての人権は、古来あったわけで、それを踏まえて、近代にいたって人権として法に謳われるようになっていったのである。潜在的にあって道徳的に権利としてあったものを顕在化して、法的強制力のある人権として謳ったのである。

法と道徳ということでは、道徳は崇高な規範であるのに対して、法は、どんな邪悪な人間でも守るべき最低限の規範、最底辺の道徳を謳うのが普通である。窃盗など、普通人なら、当然のこととして侵すことのないもので、規範としてすら意識しないものが法となる(ただし、権力者が法に謳えば、守るのは困難な高等なものでも法(悪法)となる)。法とちがい道徳は、実行が難しい高等なことを求めるもので、皆が守ることは無理だけれども、あるべき尊い規範であり、権利に関しても、(皆がこれを義務として国家のもとに守ることの強制される)法にはできないが、守られるべき尊い善として道徳的な権利になる。階級社会であった歴史においては、支配者に都合の悪い、被支配者の権利は、法にしたのでは、邪悪な支配者もこれには従う必要があるから、人権などの規範は、道徳的権利にとどまっていた。しかし、崇高な、重みのある、守られるべき権利であったことは確かで、古代であっても、真摯な人たちは、自身のもとでは、人権を尊び、人を殺めたりしない義務を自らに課していたことである。