7-2-4-5.「忍耐の人(homo patiens)」を踏まえつつの「幸いの人(homo felix)」
最近までの我々は、汗を流して苦労することを美徳とした。私自身も、それを踏まえているので、創世記のアダムと同様に労苦、苦痛・困難を耐え忍んで生きるのが今後の人類でも真っ当なことと思ってしまう。つまり、近未来もまた、ひとは、「忍耐の人(homo patiens)」として生きるのだろうと想像しがちである。だが、歴史を振り返ってみると、意外に、労働にあくせくすることを自発的にする人々は少ないようにも思われる。アフリカに赴任していた商社マンの友人が、もう半世紀以上も前の話だが、アフリカ人は働かない、お金が入ると無くなるまで働きに来ないので困ったものだと嘆いていたが、むしろ、それが人の普通の在り方で、日本の近代の勤勉な生き方の方が特殊だったのであろう。資本制の模範の国であった英国でさえ、初期には、農地から追い出した農民を労働者として働かせるのに苦労したというではないか。
これからは、富の偏在さえなくすれば、おそらく労働はほとんどしなくても済むようになろう。そういう時代の一般の者の生き方では、労働は、ほんの些事となり、やる人には楽しみになるぐらいであろう。歴史の中では、それを実行することができたのが、貴族である。「三代目は家をつぶす」というのは、あくせく働いてのみ生きえた庶民の話で、特権階級の者は、国家の保護のもと辛苦の労働とは無縁にリッチに生きていたのである。それが近未来の庶民に実現されると見る方が、無理して、なにか「忍耐の人」にふさわしいことを持続していくという見方よりは、自然であろうか。日本の近現代の者は、勤勉でなくては、人として真っ当ではないと見るのが普通なので、のんびりと生を謳歌するのは、犯罪に近いものに感じがちである。しかし、情報革命の進展とともに世界は激変しつつある。「忍耐の人(homo
patiens)」ではなく、近未来のひとは「幸いの人(homo felix)」として、かつての有閑階級に似た生き方がとられると見るべきなのかと思う。私自身は、勤勉な人々とともに生き老いてもきたので、そういう有閑階級的な生き方を真っ当な未来の姿として描くことには抵抗感をもってしまうのだが、日本の未来を担ういまの若者たちを見ていると、だんだんそういう社会になっていくような気もする。人類の知的遺産は、有閑階級の産であり、学問をこれだけ高度にしているのも、諸芸術も、有閑階級あってのことであった。寄生虫で怠惰な有閑階級は到底受け入れがたいけれども、一途に学の深化を志し、諸芸術を支えていた有閑な者たちの在り様が、輝かしい未来の庶民、「幸いな人」の生き方の一典型になるのだろうかと夢想もする。
ただ、情報社会は、非実在バーチャルな世界になることが多いので、ひとの身体・感性をもった方面は、不満となろうし、不自然であるから、その方面がかつての有閑階級とは相当に異なったものとなりそうである。自らの身体を動かして自分のことは自分でするという点では、昔の貴族とは異なろう。本物の自然に触れて、自身の実在性を確かめるということである。過去の有閑階級でも、狩り(のまね事)は、盛んで極上の楽しみだったように思われるが、身近な自然の中で、汗水をながし、泥まみれになるといった営為は、生の充実、楽しみ、欲求になっていくのではないか。さらに、この人類の新規の生の発揚でも、生きがいとなり一層の向上がなる場面には、有する能力を十分に発揮できる対象を見出していくことになり、それは、チャレンジ精神を駆り立てる困難なものとなるであろうから、苦痛となるもので、したがって、忍耐を必須とするようなものになろう。とすると、やはり、根本的には、情報革命が落ち着いた新世の社会になっても、創世記のとらえた人間誕生の在り様と異ならず、新人類も、依然として、「(苦痛に)忍耐する人」でもあり続けることであろう。人を前進させるものは、これであろうが、それを支え、それへと誘うものは、「幸いの人」であろうか。
新人類もまた「幸いの人(homo felix)」「忍耐の人(homo patiens)」と見なすのは、理性の制御のもとで自然の快と不快に動かされるという、現人類の延長上での想像である。これまでの人類は、「幸いの人」を憧憬しつつの「忍耐の人」であったが、近未来の人は、現に「幸いの人」でありつつ、一層の充実を求めては困難に挑戦する「忍耐の人」となるのであろう。ひとが永遠の命の木の実を食べる未来社会においても、自然を土台にしていく理性人であれば、自然の快不快の根源的な動力に乗っかって生きるということでは同じになろうと想うが、貧弱な妄想であろうか。「事実(truth)は、小説(fiction=嘘八百)より奇なり」という。永遠の命の木の実を食べた不死の未来の人類の生態は、私のフィクションを超えた世界になる。