7-2-4-1. 二つの禁断の木の実で、ひとは、ひととなった
人類が尊厳を有する卓越した存在になっているのは、知恵をもって自然世界の上に聳えているからであろう。デカルトは、ひとを「考えるもの(res cogitans)」と見て、精神的実体としてとらえたが、それは、今日でも同様で、ひとのことを「知のひと(homo sapiens)」とする。知恵に卓越した人類の誕生について、旧約聖書『創世記』は、アダムとイヴが、禁断の知恵の木の実を食べたことをもって語る。『創世記』は、さらに、もう一つの禁断の木の実をあげていた。永遠の生命の木の実である。これは食べなかったので、通常、無視される。だが、大切なことを語っていたというべきである。命の木の実の方は食べなかったということは、命、動物的生命としては、ひとは、自然のままの存在であることを他の動物とともにしていると語っているのである。
ひとは、英知をもった存在であるが、同時にその身体は、動物の状態にあることを常に踏まえていなくてはならない。理性を有した超自然の存在でありつつ、同時に身体的に感性自然の存在でもあるという、ひとの二元性・二面性である。この自然においては、ひとも動物と同様であり、快不快(苦痛)の感性をもって動くのである。生命倫理で、動物的生の尊厳を語るとき、その生を特徴づける根本に苦痛をおく。苦痛を感じうるものは、ひとと同じなのであるから、これを殺めるようなことをしてはならない、あるいは、苦痛を与えるような殺し方をしてはならないと、命の尊厳の核を苦痛におく。つまり、その点からいえば、ひとも動物も「痛むもの(res dolens)」なのである。仏教も人間世界を「苦界」「苦海」として、ひとは、苦をもって人となっていると見た。厭離穢土(欣求浄土)をいう。この世俗、穢土は、なにより、苦しみがあり、苦痛がある世界である。それが人間世界だという(それを超越した、欣求する極楽浄土は、苦を消滅した安楽の世界となる)。厭離したい、嫌悪し回避したい、あってほしくないのに有るのが苦痛・苦難であり、それこそが人間界、苦界をつくっているのである。
ひとは、永遠の命に関わる禁断の木の実は食べなかったので、動物と同じく自然のもとに生きている。その行動原理は、快不快(苦痛)にある。個体的生の維持のためには食欲があり、これは、快(おいしいもの)を求め、不快・苦痛(まずいもの)を回避することで行われている。だが、ひとは、他方に知恵の木の実を食べたので、知恵をもって、理性的にふるまう。それを自然的生の場にも、必要なとき求める。自然的に快であっても、これを制御・禁止して、それが苦痛になってもこれの回避を抑止する。生の保護に反する苦痛について、これを回避せず、知恵を持った人類は、理性的に制御して、苦痛を甘受することになった。反自然的に苦痛を受け入れれば大きな価値あるものが得られると分かった場合、この苦痛を手段価値として受け入れ、苦痛を甘受した。つまり、ひとは、自然の存在とちがい、必要なところでは、苦痛から逃げない存在となった。ひとは苦痛をより多く受け入れて一層の「痛むもの(res dolens)」となっているのである。