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2026/02/19

世界観を創る苦痛

7-3-5-1. 過去の不労の有閑階級と、未来の人の異同 

 情報社会のもたらす未来は、労苦無用となって、「幸いの人(homo felix)」の社会となり、人類が夢見てきた極楽・天国が実現するように描きうる。生活は健やかで長命で賢明になるといったことでは、素晴らしい未来である。だが、それは、そんなに大した変化でもないのかも知れない。基本は、労働・生産が無人化したロボットの工場や農場で行われて、国民は、辛苦の労働に耐える「忍耐のひと(homo patiens)」ではなくなり、自由に日々の時間を使える世の中になるということである。仕事をせずに自由にというと(ベーシックインカムあたりで生活の保障はあるだろうとはいっても)、失業してぶらぶらしている様が目に浮かび、そんな退屈で貧しい自由が年中続くのかと思うと、若干、心もとなく不安になるが、それは現代の苦労人の取り越し苦労で、することがなくて時間をもてあそぶことにはならないだろう。労働から解放された自由の生活は、歴史の中では、とっくの昔から有閑階級の人たちが享受してきたことである。かれらが暇を持て余して困っていたという話は聞かない(「(小人閑居して)不善をなす」類いの話はどこにでもあったが)。それと同じ状況になるのであろう。過去のそれは、労働するものの搾取・収奪によっていたことで、生産者の貧困・犠牲をもって支えられていた。それが、近未来では、無人工場が一般化する等で労働自体が無用化してくるのであり、搾取・収奪などとは無縁の自由の存在に万人がなるのである。近未来の人の自由は、強制的な労働という束縛からの自由であり、かつ、自身の好きなことをして生きていく自律の自由である。現在、趣味として愛好されているもの、学問・芸術とか、スポーツ、工芸・園芸あたりは、多くが充実した生活の中心におくことになりそうである(理想的生活として昔から「晴耕雨読」を言ってきたが、農耕と読書だけでも、百年二百年と続けても飽きることはないであろう)。

 情報革命の成果としての未来の生活の変化は、そんなに大仰に騒ぐほどのことではないとしても、ひとは、つねに未来に生きるものゆえ、とくに若い者は、無関心に放置しておくことはできないであろう。自己実現していく先の未来社会がどうなるのかを予知しておくことは、現在の生き方を決めるために必要なことである。昨今、AI(人工知能)の進歩がめざましく、仕事の有り様を根本から変えようとしている。単純な労働は、すでにかなりが機械類によって行われている(ただし、経費の関係で、いまのところ人を雇う方が安いので、自動化、ロボット化が進まない分野もなお多い)。専門的知識をもっての知的労働でさえもが無用に近くなっている。弁護士とか医者といった専門職も無意味化してくることがすぐ先に迫っている。まだしばらくは、既存の進学・就職を考えるといいのだろうが、これからは、長生きともなり、何をもって生きるかについて、10年先に社会に出る今の中学生あたりは、戸惑わざるを得ないであろう。おそらくは、自身の好み、(社会的使命を担えるような)得意とする分野に向けて個性豊かに生きていくのが真っ当ということになっていくのであろう。いまの大人の古い価値観の勧めるものに従って、やりたい文学を断念して、いやなのだけれどお金儲けができる分野をと選択していたのでは、将来、当てが違ったということになりかねない。

過去の不労の有閑階級と未来の労働無用の自由の人のちがいということでは、まず、前者の場合、真摯な者は、自分の豊かさが搾取・収奪のおこぼれでなっていると、後にアフリカで医療に献身した、少年シュヴァイツァーのようにうしろめたさをもったことだろうが、未来の自由な人々では、それはなく、似たことがあるとすれば、無駄な贅沢をして自然環境を汚してといった配慮あたりが問題となりそうである。自由になにをするかということでは、過去の有閑階級のもっていた労働への忌避感はなくなり、人類の営為全般が踏まえられることであろう。情報社会の生み出すバーチャルなものにのめり込む者は当然あるだろうが、バーチャルでは味わえない実在・本物の世界の営為が多くの関心を占めることになるのではないか。それについては、過去の生産活動、狩猟採取、農林漁業、鉱工業、あるいは、研究・教育、サービス業といったものを踏まえて、自身が得意とし楽しみとなるようなものが選ばれることであろう。いまでも、年金生活者の少なくない者が、会社勤めの頃とは一転して、自然に触れながら菜園で野菜や果物をつくって楽しみとしている。自然のなかでの自給自足的生活は、理性と感性(精神と身体)の両方のしっかりした働きを求め、多くの人に充実した生をもたらしそうである。